下町なつかし写真館
浅草橋の紅白マロニエ祭りに行ってきました。
お目当ては、秋山武雄さんという写真家の、下町なつかし写真館。
昭和30年代の東京の様子がたくさんの写真に残っています。
まだ着物が普段着として着られていたときの着こなしを知ることができました。(着ているのは比較的お年を召した方ですが)
レトロな袋
こんばんは。みや子です。
今日は東京は雪が降りました。寒い一日でしたね。
今日は判子を買いました。そしたら、なんともレトロな袋に入れて頂きました。
好きですねぇ、こういうの。
レトロカレンダーの準備はできましたか?
おはやうございます。みや子です。
もう師走になりました。一年早いです。もう聞きあきたと言われても言います。一年早いです。
さて、皆様は来年のカレンダー御準備は済んでいらっしゃるでしょうか?
私は先日往きました、100円ショップで理想的なのを見つけました。
意匠、ことわざ、全体の色使い。
どれをとっても正に理想的。しかも値段は108円。
私はこういうのを探してました。
壁にかけるとたちまち身が引き締まるような、大正昭和のお父さんに見守られているような、そんな気がしますねぇ。
明治女が教えてくれた プライドのある生き方
素敵な本を読みました。
考えがまとまらないうちに、まとまらない文章を書いてしまうのには、嫌な気もするのですが、文章をこねくり回しているうちに、気持ちの間に何か要らないものが入ってしまいそうで、その方が嫌なのでまとまらないのを承知で書いてしまおうと思いました。
この本を読んでまず強く感じたのが、明治時代も現代もあまり変わらない、ということ。こう書くととても月並みで陳腐に聞こえてきますが。。。
明治時代も現代も女性は女性特有の不自由を感じていて、それなりに自由を求めていて、それでいてそれなりに幸せに生きていた、ということ。また、明治時代でも自分のことばかり考えて却って不幸せに生きている人もいれば、他人のことを心から思いやり自分らしく幸せに生きた人もいるのだということ。
印象的だったのが、幸田露伴の妻幾美・八代と、松下幸之助の妻むめののエピソードです。
幸田露伴の妻、幾美と八代の話
幸田露伴の最初の妻幾美は夫の才能を認め、露伴に本を買わせるため自分は着物一つ買わず、いつも真っ黒になってよく働き過程を支え、それでいて人生を楽しんでいたようです。
幾美は若くして亡くなってしまいます。しかしその一生は娘幸田文の次の文章によくあらわされています。
「じみが不幸であったとは誰がいえよう」
また露伴によって立派な葬儀が行われ、幾美の墓石には「よく糟糠に耐え」と記されたということです。
耐え忍んだ人生を、後から他人が美化するのは別に良いことではありませんが、これは決してそういった類の話ではありません。夫である露伴と娘の文による心からの愛情や尊敬の念が、文章や墓石に残っているのですから。
亡くなってからもなお、幸田露伴と娘の文、またたくさんの人に尊敬の眼差しで見つめられ続ける人生は、なんと偉大で華やかな人生ではないでしょうか。現に時と場所を超えて、こんな何の関係もない私ですら尊敬の眼差しで幾美さんのことを想っているのですからね!
一方、後妻として来た八代という女性は、幾美とは正反対の性格だったようです。女性がかげで家庭を支えるなんて人生はまっぴらで、自分のために人生を生きたいと思っていたのでしょう。家事も育児もせず、自分のやりたい学問をしたがり、女性だからといって見下げられるようなことは許さない、という女性でした。しかし、八代はいつも不満そうで、不幸せそうだったようです。
やりたくない家事は文がやり、その分聖書の勉強などをする時間を与えられていたそうですが、それでも心の中で「別に自分は家事ができないからやらないのではない。きっと皆私ができないと思ってバカにしている」などと不満ばかりためていたのではないでしょうか。
八代の気持ちはわかります。家事や育児に自分の人生を奪われてしまうのは、せっかくこの世に生まれてきた自分を蔑ろにしているような気持ちがあったのではないでしょうか。でも、本当はそうではないのかもしれません。
まるで玉ねぎみたいに、自分のために他をそぎ落としていくと、自分が無くなってしまうのかもしれません。他人を大事にし他人のために生きるからこそ、自分の個性ができていくのかもしれません。でも、八代の人生も「生き辛くても自分を曲げない」というまっすぐな人生だったのでしょう。
松下幸之助の妻むめのの話
その人生は書籍やドラマにもなったようなので、もう松下幸之助の妻むめのは有名のようですね。
本当に、胸がワクワクするほど素敵な女性だと思いました。
それは以下のエピソードです。
幸之助の事業が軌道に乗ったころ、幸之助はある従業員3人を工場の仕事から営業に回そうと考えました。その従業員3人は工場の仕事を気に入っているのに、営業の人手が足りないという理由での異動でした。
しかしその思惑に気付いたむめのは、幸之助に猛烈に抗議します。
幸之助も幸之助でむめのに「おまんは商売に口はさむんか」と怒ります。
それを受けてむめのの放った言葉といったら!
幸之助さん、これは商売の話やおまへん。人間の話や。人間としての筋が通ってない話は、どんなに商売がうまいこといったかて、そんだけのこと。」
今では企業の目的は利益だと、当然のように教えられます。それは正しいのですが、しばしば利益が人より重視される時があります。企業の目的は利益だけれど、もっと大事なのは人。という当たり前のことなのですが、私なんかは仕事をしているとすぐに忘れてしまいます。人を大事にしない商売なんて、意味のないこと。むめのさんは改めて教えてくれました。
最近やっと、生きていくのに一番大切なことは、自分の軸を持つことだと考え始めました。
長くてそれでいてあっという間の人生、何が得られたかではなく、この軸をしっかり持って生き通すことが、私の人生なのではないかと。この本に書かれた「運命を受け入れて、切り開いた女性」(そして運命を受け入れられなかった女性)の話は、その大事な軸を考えるのに影響を与えてくれるものでした。
昭和の結婚
こんな本を読みました
昭和の結婚
昭和初期の結婚衣装や髪型の参考にと読んでみたのですが、面白かったのが結婚した女性の家庭でのふるまいやたしなみに関する雑誌の記事。
「家」制度が残る昭和初期の結婚を「凱旋無き出征」と例えているのが印象的でした。女性は徹底的に家長である夫と、そのお母上様を立てる必要があるのです。
朝は夫を起こさないよう静かに起き、食事の準備や掃除を済ませ、夫の気を悪くさせないように優しく起こします。
さらにこれまた夫の気を悪くさせないようそれとなく帰宅時間の目安を確認し、妻はそれに合わせ食事の支度や雨が降った場合のお迎えなどの計画を立てます。
更に私を驚愕させたのが、雨が降り夫を駅まで迎えに行ったときには「お母様がご心配なさっていたからお迎えに上がりましたのよ」と姑を立てる言葉も忘れないところ!
夫が帰る頃に暗い顔なんかしていてはいけません。太陽に咲くひまわりのごとくピカピカ幸せそうな満面の笑みで夫を明るく迎えなくてはいけません。夫が玄関のドアを開ける時には、うれしくて小走りになってしまった風を装って「お帰りなさいまし!」と駆け寄ります。
そうしてまさに長い戦争に向かったかのごとく忍耐と努力の日々を過ごし、徐々に夫を手なずけるのが家庭の主婦のやり方なのです、と締められていました。
適度に無知に、常に夫の都合に合わせ、夫には従い自分の要求は口にせず、でもしたたかに、明るく。そんな女性が昭和初期の理想の奥様なようです。