岩田専太郎 妖艶な女の顔と体を描いた大正・昭和の挿絵画家
大正ロマン画家と言えば、竹久夢二・高畠華宵が有名です。
彼らの時代より少し後から活躍した挿絵画家が岩田専太郎です。
夢二や華宵はどちらかというと少女や女性が好む画風ですが、岩田専太郎の描く美人画は男性好みの妖艶で豊満な女性が多いように思います。
昭和時代を生きた祖母に聞くと、華宵や夢二はあまり知らないけれども、岩田専太郎の名前はすぐにわかりました。どこもかしこも岩田専太郎の挿絵が使われているようなイメージだったと。
そんな、岩田専太郎の本を2冊読みました。
岩田専太郎は「昭和挿絵の第一人者」というのが良く知られた顔のようです。
二十歳の頃から挿絵の仕事を始め、72歳で亡くなるまでずっと絵の仕事をしていたためもありますが、長く続けた、というだけではなくずっと時代から求められて驚異的な忙しさで仕事をこなし、昭和を代表する挿絵画家になったのでした。一生で描いた絵の数たるや、ものすごい数になったといいます。(6万点だとか・・・すごいですよね)
そんな岩田専太郎の経歴を見ると、さぞ成功者だったのだろうと思われます。
実際時代の寵児といったイメージもあったでしょうし、売れっ子作家でしたからお金も相当稼いでいて、誰がどう見ても「成功者」だったでしょう。
しかも、女性にとてもよくモテたそうです。
しかし、「私の履歴書」で岩田専太郎自身が語る自分は、終始否定的です。
例えば、
- だいたい私は、意志薄弱な男だと思っている。今日までなんとか過ごしてきたのは、多少でも絵が描けたおかげだとしか思えない。(中略)何か一ツ、身をささえるものがない限り、私のたどってきた道は、敗残者への道なのだ。都会育ちのせいか早熟で、なまけ者だ。(p129)
- 絵描きには向かないおれなのか? と自問自答する日が何度もあった。(p132)
- 物事の本質を究明することなしに、その表面だけをなでる愚を、くりかえしていたのであろう。この愚かしさは、ずいぶん長く続いた。ことによると、今でもそうかも知れない。(中略)自分の求めるもの、その本体が明確でなく、うろうろしている。やんなっちゃうナ……。ひとりだけで、コツコツ絵を描いていたに過ぎない。きわめて世間の狭い男である。(p141)
- 貧しい家に生まれても、才能のある人ならば、苦労して志をつらぬく人もあるが、苦労するのがきらいなおれには、とても無理だろうナ、とも考えた。才能に自信もないし、芸術を志すのは、あきらめた方が、よさそうだ、とも思った。とても、自分などには、芸術家になる資格が、ありそうにない!と、そんな気もした。(p155)
- さし絵を描くほか、何事にも実績をあげられない私である。(p168)
- いくら働いてみても、一国一城の主にはなれないとあきらめてもいる。それに気がついたのは、五十に近くなってだった。(p212)
見事なネガティブ発言のオンパレード!(笑 これでも一部ですが。
しかもこの本の記事を執筆しているのはもう60も過ぎたころです。
40歳を不惑と言いますが、こんな成功者でも一生惑い続けるのでしょうか。(成功者だから、とも言えますでしょうか)
自らも語っていますが、兎角岩田専太郎を支配したのは「厭世観」でした。
誰もが羨む名声と財産にも関わらず、岩田専太郎の口からは「自分には何も無い」というような空虚な言葉がよく出てきます。
驚異的な仕事をこなしながら、同時に岩田専太郎はこのような厭世観を抱えて生きていた、というのが私には不思議でありながらとても興味深く感じられました。
「私の履歴書」には岩田専太郎の描いた絵は掲載されていませんが、「岩田専太郎」の方には絵や写真もふんだんに掲載されています。
大正・昭和の艶姿を描いた挿絵画家・岩田専太郎にご興味のある方に、どちらの書籍もおすすめ致します。
それでは、また。
みやこ